2011年4月15日
チェルノブイリ事故と福島第一原発災害
チェルノブイリ事故の1986年、私はウィーンのIAEA(国際原子力機関)広報部長の任にあった。ジャーナリストの経験を有するベテラン日本人を登用したいとするブリクス事務局長(当時)の方針で、原子力にズブの素人の筆者が採用されたのだが、時あたかも日本は、通産省(現・経済産業省)主導のPA対策で原子力に対する国民の不安を克服し、「安全神話」維持に成功した。「チェルノブイリとは炉型が全く違います。日本ではあんな事故は起こりません」というのが、通産省エリートたちの論理で、自信満々の風情だった。
チェルノブイリは深い爪痕を残し、放射性ヨウ素やセシウムを基準値以上に含んだ食料品が欧州各地に蔓延し、イタリア、オーストリアなどが脱原発に踏み切ったが、日本では反原発運動が若干盛り上がっただけだった。朝日新聞はこれを「ヒロセタカッシ現象」と呼んで、突き放した。日本政府は、みごとに反原発運動の抑え込みに成功、その後原発推進路線が定着した。あれから25年、多少のトラブルと挫折はあり、念願の核燃サイクル確立は遅れているが、昨今の“原発ルネッサンス”で日本の原子力産業は順風満帆に近かった。そこに起きたのが東日本大震災だ。福島原発も地震では4基の炉は停止したが、高さ10メートル以上の津波来襲は「想定外」だった。
「社会主義はソ連崩壊で消滅したが、日本でだけ成功した」とは、よく引用される逸話だ。国策は護送船団方式の官僚主導で、すべてがうまく運んだからだ。原発1基の建設に10年以上の歳月と数千億円の巨額を要し、巨大国家プロジェクトとして推進せざるを得ない原子力こそその典型。その旗振り役は通産省。チェルノブイリを機にエリート官僚がIAEAに“殴り込み”をかけてきて、事務局の幹部ポストを奪取した。それまで事務局の日本人職員の中枢を占めていた科学技術庁出身者は一掃され、通産エリートが取って代わった。高度成長期の日本政府の切り札はもちろん、札ビラ、資金協力だった。ジャパン・マネーで数多くのポストが新設された。
あれから25年、通産官僚に当時の勢いはなく、“政治主導”を掲げる民主党が政権の座に就いたが、巨大産業である原子力推進の官僚主導体質に変わりはない。今回の福島原発事故が収束しても、4基が廃炉となった場合、その損害総額は総額数兆円規模になると推定されている。日本政府が被害に最大限の責任を負い、補償に最善を尽くすのは以上の文脈から当然の帰結である。
次に、IAEAの役割に関する日本人の誤解を指摘しておきたい。天野之弥氏の事務局長就任以来、原発事故でもIAEAを過大評価し、その影響力に期待する論調が日本にはあるが、IAEAにその権限はないし、責任もない。“核の番人”という形容は「核物質の軍事転用阻止」における役割を意味するもので、原発など原子力平和利用に関しては、その限りではない。実は、原発の安全、要員の訓練などにおける国際協力は、IAEAにとってチェルノブイリが初体験だったのだ。チェルノブイリ事故のあと、ウィーンで夏休み返上の国際会議が開かれ、事故の早期通報と相互援助提供の二つの国際条約が締結された。原子力平和利用における初めての国際条約だった。IAEA事務局に、「原子力安全部」という部署が発足したのもチェルノブイリ以降のことだ。IAEAにとっても未経験の分野なのだ。【NERIC NEWS 2011年3−4月号】