2011年5月16日
「安全神話」は崩れたが、脱原発は容易ではない―― 「言うは易く行うは難し」の日本の実情
東電福島第一原発が最終的にどう収束するかに世界の関心が集まっている。10メートル以上の津波に襲われた東電の原子炉4基は高温高熱の核燃料を内部に抱えたまま、高度に汚染された放射性物質を垂れ流し続けている。
国際的批判を浴びて、東電は外部への組織的な放出はその後控えているが、総量6万トン以上の海水が4基の格納容器内部を目いっぱいに満たした状態になっている。問題は、この海水を最終的にどう処理するかだが、半減期数十年の放射性物資が大量に含まれている以上、今後少なくとも20年以上海中投棄は不可能だ。
海に投棄すれば拡散するから生体系に無害になるというものではない。どの程度薄まれば無害といえるかを事前に確定することはできない。
次に溶けて流れ出した燃料棒の中の核物質が最終的にどうなるかだ。回収されたとしても、水棺の中で固化したり、凍結する保証はない。25年前のチェルノブイリ原発は炉心溶融の結果、石棺にコンクリート詰めされた核燃料が現在も外部に漏れ出て大気を汚染し続けている。これが原発事故の恐ろしさなのだ。放射性物質の半減期はヨウ素のように半減期8日という短いものもあるが、プルトニウム239のように、何と2万2000年という気が遠くなるほど長いもものもある。
東電が発表した安定化に向けての2段階の工程スケジュールによれば、今年いっぱいで福島原発は収束する手筈になっているが、原子力専門家でこれを額面通りに信じている者はいない。今後、人類の健康に深刻な影響をもたらすほどでないまでも、福島原発から漏れ出る放射能は半永久的に地球を汚染し続けるだろう。
というわけで、現在、日本の世論には反原発感情が高まり、原発に頼るエネルギー政策の転換を求める声が強まっている。しからば脱原発は実現できるだろうか。答えは、そう簡単ではない。原発にさまざまなメリットがある上に産官学業(業界)の各界に、原子力推進に死活の利害を見出している人びとが東電の周辺にあまたいるからだ。
現在、日本の各地には54基の原発が稼働し、出力年間4800万キロワット、日本全国の電力需要の27パーセントをまかなっている。震災前の計画では、あと14基、最終的には6800万キロワットの電力を提供する手はずになっていた。何しろ、地球温暖化防止の切り札として、原発は米国、フランスはじめ先進諸国がこぞって推進しようとしている基幹エネルギーだ。中でもフランスの電力の80%は原発に依存している。先進国で原発に頼らない政策をとってきたのは、北海油田の恩恵に浴しているノルウエー、自然エネルギー重視のデンマークなど、ごく一部にすぎない。とくに昨今は、中国、インドはじめ、新興諸国がこぞって技術ナショナリズム追求の延長上に原発を位置づけ、原発導入に力を入れている。そこへ起きたのが東日本大震災だったのだ。
東日本大震災、とくに高さ10メートル以上の津波襲来は「想定外たった」というのが東電関係者の証言として報道の大勢を占め、世論も納得しているが、厳密には「想定の範囲」だったのだ。チェルノブイリ事故の4年後の1990年、米NRC(原子力規制委員会)は大規模地震であらゆる電源が断たれ、ブラックアウトになった場合を想定して電源確保の必要性を強調、各国の原発関係者に警告していたにもかかわらず、東電はじめ日本の関係者はこの警告を無視していた事実がある。
原発の長所は何か。第一に、大規模発電がかのうなこと、第二に、安定供給が可能なこと、第三に、経済性。化石燃料にくらべて割安なこと(これには反原発グループからの反論もあるが。)そして、最近最も注目されているのが、地球温暖化の原因となる二酸化炭素を排出しないことだ。
しかし問題は、いったん事故が起きたら取り返しのつかない結果を招くこと。さらに現時点で高レベル放射性廃棄物の処理が未解決であること、など、課題も残っている。
脱原発がスムースに実現し、日本経済の停滞を招かないなら筆者も大賛成だが、行く手にはさまざまな困難が待ち受けている。太陽光、風力、バイオマスなどの再生可能エネルギーのシェアは現在わずかに1.1%。これを現在の100倍近くに増やさないと代替の基幹エネルギーとして役立たない。障害は経済性。現在1キロワットあたりの発電量は原子力の5倍から10倍で、到底採算が合わない。
コストダウン実現のためえには巨額の投資を要する。巨額の投資が実現しても現在の蓄電技術では実用化に時間を要する。送電ロスももっと少なくしなければならない。日本全国10電力会社の地域独占体制も抜本的に変革しなければならない。戦後体制の根本的改革が不可欠だ。移行期は10年はかかる。
その間、私たちはきびしい省エネに耐え、エネルギー源転換の過渡期を克服せねばならない。その覚悟が日本国民にあるだろうか。