2009年1月17日
原子力の“アキレス腱”は宿命 <電気新聞「時評」欄>
年末年始にNHK総合テレビと衛星放送で放送された将来のエネルギーに関する特別番組が自然エネルギー礼賛に終始し、原子力の役割を故意に無視していたとして、筆者も加わっている原子力界OBのメーリングリストで異論沸騰、何人かはNHKに抗議文を送ったようだ。
筆者も見た。世界不況、格差拡大という暗い世相の中で、せめて明るい未来展望を視聴者に提示しようとする制作意図から風力・太陽光などを過大評価したきらいはあるが、ことさら原子力発電の必要性に触れていないからといって目くじらを立てるほどのことはないと感じた。
日本の原子力関係者に共通しているのは原発推進にかける熱意と使命感、科学万能主義の過信とナイーブな楽天主義だ。それだけに「なぜこんなに便利で有益なエネルギー源を受け入れ、利用しようとしないのか」と義憤に駆られて抗議の声を挙げたくなるようだ。原発関連企業・組織で長く現役生活を送ったシニアたちは、世の風潮が反原発・脱原発になると自分の人生を否定されたような錯覚にとらわれるらしく、老骨に鞭打って推進論を喚き立てる。老後は悠々自適、趣味にでも生きればいいのにと筆者は思うが、それができないのが日本人の貧乏性なのだろう。
しかし原子力が化石燃料に代わる基幹エネルギーとして国民にあまねく受け入れられ、原子力中心の低炭素社会が実現する可能性は薄いと筆者は思う。原子力の最大の欠陥は放射能を扱い、放射性廃棄物を出すことだ。スリーマイル島、チェルノブイリに続いて国内でも大小のトラブルが続出、“安全神話”が消滅した現在、いくら安全だといわれても国民は100%信用できないのだ。
原子力平和利用半世紀を経て、いまだに高レベル放射性廃棄物処分場が決まらないのもそのためだ。おそらく今後も国内で名乗りを上げる自治体は出てこないだろう。
筆者も関係しているNPO法人「放射線教育フォーラム」の学習会で、その道の専門家が「ガラス固化体による永久貯蔵はきわめて安定し、安全だ」と強調、「こうした学習を積み重ねていけば国民の納得は得られる」と楽観論を述べていたが、おそらくそうはならないだろう。人間は感情の動物であり、理屈ではわかっていても反応はNIMBY(Never in my backyard)になる。
次に核拡散の問題がある。この点に日本の原子力関係者は驚くほど無頓着、無関心だ。理由は、平和利用に徹することに官民のコンセンサスが存在し、自分たちには軍事転用の意思が全くないからだが、国外では日本核武装論がくすぶり続けている。最新のCIA(米中央情報局)報告でも「2025年までに日本は核武装する」と予測している。政界には勇ましい核武装論が根強く存在しており、北朝鮮の核実験の折に噴出した。槌田敦氏(元名城大学教授)らは「核燃サイクルは日本の核武装のための隠れ蓑だ」とさえ明言している。
日本はともかくとして、新興国に原発建設ラッシュが起きた場合、必ず問題視されるのが核拡散の危険性である。北朝鮮が核廃棄の見返りに軽水炉の供与を条件にしているのも、必要ならいつでも軍事転用できることを知っているからだ。
以上、(核テロを含む)安全性、放射性廃棄物処理、核拡散の3点はまさしく原子力が内蔵する宿命的欠陥として、1987年のブルントラント委員会報告以来、「温暖化対策の決め手にはならない」というより「すべきではない」として国連の原子力排除の根拠になっている。
IEA(国際エネルギー機関)などは、深刻な温暖化進行を憂慮して見直しを提唱しているが、EU(欧州連合)の主流はフランス以外ほぼ脱原発なので、すんなり実現はしないだろう。民主党には核不拡散論者が多く、オバマ米新政権登場で“原発ルネッサンス”にブレーキがかかるのは疑いない。