2008年7月27日
乾杯するときグラスをぶつけ合うな <<「電気新聞」連載コラム>>
暑気払いに今回は軽い話題をとりあげる。「外国では」と自慢気に見聞をひけらかす人間を「出羽の守」というが、あえて言えば、私が日頃どうしても違和感をおぼえる日本人の仕草が少なくとも3通りある。
第一は、ペコペコお辞儀しながら握手する癖。日本には昔からお辞儀という奥ゆかしい習慣がある以上、日本人同士が握手する必要がどれだかあるのだろうか。選挙運動中の政治家は有権者と握手さえすれば票になると思いこんでいるらしく、やたらに握手したがるが、政治家は仕方ないとして、普通の日本人同士が欧米人の真似をして握手するのはみっともない。しかもお辞儀しながら握手するからさまにならない。
私の国連在勤中、立正佼成会の故庭野日敬師をデクエヤル国連事務総長(当時)に引き合わせたことがあるが、師は握手しようと差し出された右手を握らず、両手を合わせて合掌。するとデクエヤル氏もあわてて合掌して挨拶を返した。かつてカンボジアで、シハヌーク国家元首(国王)と明石国連代表もいつも合掌しあって挨拶していた。ほほえましい光景だった。
第二は、日本人は挨拶もそこそこに名刺を差し出す。お互いに名刺の肩書を一瞥して相手の品定めをする。「人間は肩書ではない」と言いながら内心肩書に拘泥する。だから日本の肩書社会は改まらない。名刺は便利で、おしぼり、カラオケと並んで日本が世界に広めた文化だが、名刺交換は連絡先を教えあう必要が生じたときにやればよいではないか。
ついでにいうと、苗字(姓)と名前を欧米流(キリスト教徒流)にひっくり返してローマ字表記することに何の疑問ももたないのも日本人だけだ。近隣諸国では、たとえば誰に対しても中国人なら故錦涛(フーチンタオ)、韓国人なら李明博(イミョンバク)で通し、決してひっくり返さない。まもなく北京オリンピックが開幕するが、東アジアの選手はみな姓、次の名の順に名乗るのに、なぜ福原愛がAI FUKUHARA、谷亮子がRYOKO TANI にならねばならないのか。
日本の職場で同僚・部下をファースト・ネームで呼ぶ習慣はない。せいぜい家庭内で親が子を、兄姉が弟妹を呼ぶとき使うくらいだ。洞爺湖サミットで、福田首相は、ロシアのメドヴェージェフ大統領は「ドミトリー」とファースト・ネームで呼んだという。初対面同然なのにおよそ場違いだ。米国人はすぐファースト・ネームで呼びたがるが、欧州ではよほど親しくならないと失礼にあたる。
第三は、乾杯の流儀だ。お辞儀しながら握手して、名刺交換を終えて、意気投合するとビアホールへ。そこで「乾杯!」となるが、なぜガチャガチャとグラスをぶつけ合うのか不思議でならない。日本人はどんなグラスに何を注いでもガチャガチャぶつけ合ってから飲む。
たしかにドイツ人は生ビールのジョッキーをぶつけ合って賑やかに乾杯することが多いが、他の民族、他の国民はそんな“下品で”“粗野な”ことはやらない。ましてワイングラスをぶつけ合うことなど絶対にしない。乾杯は、ホストが健康や長寿を祈って、来客・賓客を見回して、目と目を合わせて静かにするものだ。
8年前の2000年の南北首脳会談で、金正日総書記が金大中・韓国大統領相手に、大きなワイングラスを持ち上げてガチャガチャぶつけ合っているのを見て、訪朝するたびに「止めさせたほうがよい」と側近に進言しているのだが、昨年の盧武鉉大統領との乾杯でもガチャガチャやっていた。畏れ多くていえないのだろう。
「東洋流でいいではないか」と波佐場清・朝日新聞元ソウル支局長はいうが、そういうものではない。テーブルマナーは欧州から広がったものだが、これを守るのは西欧の模倣ではなく、国際社会が守るべきルールとして定着しているからだ。少なくとも、東洋では乾杯のグラスをぶつけ合う習慣が古来から存在し、だからわれわれがそれを守っているわけではないからだ。
【『電気新聞』時評ウェーブ欄2008年7月25日付】