2005年10月30日
変質するノーベル平和賞の授賞対象
今年のノーベル平和賞はIAEA(国際原子力機関)とエルバラダイ事務局長が受賞することになった。新聞社からの電話で元IAEA職員としての感想を求められ、「エルバラダイは立派な人物だが、受賞に該当するような実績はとくにない。核拡散防止のためにガンバレ!という激励のメッセージだろう」とコメントした。
かたわらで電話を聞いていた妻がポツリといった。「国連は世界平和のために、IAEAは核拡散を防ぐために存在するんでしょう。それが本来の義務じゃないですか。当たり前のことをしていて、なぜノーベル賞なのかしら」。
その通り。IAEAは取り立ててノーベル賞に値するような成果を何も挙げてはいない。そんなIAEAとエルバラダイ事務局長に授賞せざるを得なかったところにノーベル平和賞委員会の悩みがある。
前例は2001年の国際連合とコフィ・アナン事務総長だ。この年1月に就任したブッシュ米大統領は、クリントン前政権がまとめた地球温暖化防止の京都議定書やCTBT(包括的核実験禁止条約)から離脱し、ユニラテラリズム(単独行動主義)を打ち出していた。授賞決定直前に発生した同時多発テロに対抗して「テロとの戦い」を宣言して、アフガニスタンのタリバン政権打倒のための軍事行動を展開中だった。
そんなときに、ノルウェーの国会議員と有識者からなる平和賞委員会が授与を決めたのが国連とアナン事務総長だった。これも、「米国の単独行動を押さえ込んでガンバレ!」という激励賞だった。今年のIAEAとエルバラダイ氏にも同じ背景が存在する。
5月のNPT(核拡散防止条約)再検討会議は、米国が核軍縮にも原子力平和利用推進にも関心を示さず、決裂し、成果なく終わった。北朝鮮はNPTから脱退、IAEAの査察官を追放して、ついに「核保有宣言」をした。北京の6カ国協議は9月に初めて共同声明発表に成功したが、米朝の相互不信は根強く、朝鮮半島非核化に至る道は前途遼遠だ。
イランはもっと深刻で、英仏独3国の仲介にもかかわらず、秘密核開発の動きは止まらず、国連安保理による制裁一歩手前の状態にある。パキスタンのカーン博士が黒幕となっている「核の闇市場」も完全に消滅したわけではない。
国際機関には強制的に査察を実施する権限はなく、これらの状況はIAEAの責任ではないが、少なくとも過去1年間にIAEAの出番はなく、手柄といえるような実績を挙げられなかったことは事実だ。だから、「ノーベル平和功労賞」ではなく、「ノーベル平和激励賞」なのだ。それはそれで仕方ない。
ただし、日本にはIAEAの機能と役割について誤解している人が多い。IAEAは、1953年アイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォー・ピース」(平和のための原子力)提案を受けて発足した国連機関で、「原子力の平和利用推進」を保証するために「軍事目的への転用を阻止」するのが目的。そのために実施しているのが査察を含む「保障措置」。決して核軍縮や核廃絶を目指している機関ではない。職員も大多数が各国の原子力推進団体の関係者で構成されている。
私は広報部長在任中、反原発団体グリンピースとの対話集会を共催したが、議論はかみ合わず、並行線に終わり、部内で不評を買った。この断絶は日本国内にも存在する。
ノーベル平和賞のもうひとつの変質は、授賞の対象が広がったことである。これは、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが平和の概念を拡大し、たとえ戦争がなくても、人権侵害、貧困と病苦、環境破壊などが存在して人間本来の誇りと尊厳を発揮できない状況にあれば平和とは言えないとして、これらを「構造的暴力」と定義したことにある。このため、近年は、「構造的暴力」と戦う人びとや団体が授賞の対象となってきた。(単なる戦争不在は「消極的平和」にすぎず、構造的暴力を克服してこそ「積極的平和」が実現する、とガルトゥングは説く。)
こうした傾向を反映して、インドの貧困層救済に生涯を捧げたマザー・テレサ、グアテマラの先住民族出身で差別と戦ってきた女性リゴベルタ・メンチュ、イランの人権派弁護士シリン・エバディ、そして昨年はケニアの環境保護運動家ワンガリ・マータイらが受賞している。
マータイさんは、来日して「もったいない」という日本語をおぼえ、世界各地で「もったいない」運動を繰り広げて節約の精神を説いているが、日本人から受賞者が出なかったのは「もったいない」ことだった。
日本人でノーベル平和賞を受賞したのは1974年の佐藤栄作首相1人だけだ。沖縄返還を実現し、日米安保を通して東アジアの平和と安定に貢献したというのが授賞理由だったが、これには異論も出た。
小泉首相が退任までに日中・日韓関係を改善して東アジア共同体実現の基礎固めをし、日朝国交正常化を実現すれば受賞の可能性が高まるだろう。しかし、それより、人権、貧困解消、環境保全などのより広い領域で、どこかで地道に活動している日本人が受賞すれば、その方が国民全体の自信と誇りにつながるだろう。
【『世界日報』2005年10月30日付】