2003年12月11日
対米追随脱却のすすめ
イラクでテロの凶弾に斃れた日本人外交官2人の外務省葬は感動的だった。小泉首相も涙で声をつまらせた。しかし「国葬にすべきだった」という主張は過剰反応すぎないか。過去に吉田茂首相の例しかないという。「テロに屈するな」を合言葉に犠牲者を賛美し、美化しすぎるのは要注意だ。死者を追悼するよりも、これをナショナリズム高揚に利用する動きが見え隠れする。
10年間の国連勤務から帰国して遭遇したのが自衛隊のカンボジア派遣、そして2人の日本人(国連ボランティアの中田厚仁、文民警官の高田晴行両氏)の不慮の死だった。派遣中止を求める世論が澎湃と起き、大騒ぎとなった。10年前の出来事だが、“平和ボケ”の戦後の日本国民にはすべてが初体験で、止むを得ない側面もあった。
カンボジアで命を落としたPKO(国連平和維持活動)要員は54名にのぼり、発足以来半世紀を経たPKO現地で殉職した外国人兵士・文民は1800人に達する。平和維持と平和構築に危険はつきものだし、テロの脅威は世界中に広がっている。死とは隣り合わせだ。
犠牲を顧みず、いくら犠牲が出ても動じず、自衛隊をイラクに派遣せよと説いているのではない。逆である。イラクは「全土が戦闘地域だ」と米軍当局も認め、テロが頻発、危険極まりない。先月(11月)だけで、79人の米兵が命を落としている。
しかもサダム・フセイン氏の出身地ティクリットはフセイン残党の武装勢力の本拠地だ。そこへ軽装備の四輪駆動車で丸腰で乗り込んだのは軽率のそしりを免れない。小泉首相は開戦と同時にブッシュ大統領の国連安保理頭越しの一方的なイラク“侵攻”を支持し、このため日本は米国と一視同仁されていたことを忘れてはならない。そこに自衛隊を派遣するのは無謀この上ない。
犠牲となった奥克彦参事官(二階級特進して大使)は、生前の「イラク便り」で、米英主導の占領でなく、国連の枠組みでイラク復興に取り組む必要を訴えていた。故人の遺志を生かすなら、米国に国連重視を諫言し、政策転換を迫るべきで、聞き入れられないなら自衛隊派遣を中止して抗議すべきだ。
対米追随を余儀なくされる根拠に挙げられるのが北朝鮮の脅威だ。これが曲者で、北朝鮮が本当に日本を攻撃してくると信じ込んでいる日本人が意外に多い。不信感というのは理屈ぬきの感性の領域で、その根底に日本人拉致をめぐる金正日体制に対する怒りと憎しみがある。
その憎しみを煽り、不信感を利用しているのが、ワシントン発の北朝鮮脅威論だ。米国にとって、北朝鮮が北東アジアの脅威として存在していた方が、中国を牽制し、在日・在韓米軍の存在意義を正当化し続けることができるわけで、北朝鮮が実際に核使用したり、ミサイル発射しない限り、緊張関係歓迎ということになる。日本はまんまと乗せられ、利用されているのだ。
イラクにしても、北朝鮮にしても、日本人は、政治家もメディアも国際関係を情緒的にとらえ、感情的に反応しすぎる。感情論は自己中心的になり、感傷的なナショナリズムに走りやすい。イラクで言えば、大量破壊兵器廃棄が開戦の目的だった筈で、米英ではきびしい政府批判が続いているが、日本人はあまり問題にしない。外交官2人以外にもイラク人運転手が殺害されているが、話題にもならない。5年前タジキスタンで殺害された秋野豊氏(筑波大学助教授)の時もそうだった。凶弾に斃れた同僚は4人いたが、関心外だった。
北朝鮮で言えば、憎しみに駆られて、一時帰国した拉致被害者5人を一方的に永久帰国に変え、いったん北朝鮮に戻す約束を反故にし、おかげで彼らの子どもたちを人質にとられてしまった。拉致に対する憎悪と怒りに明け暮れた1年3カ月だった。
外交は喜怒哀楽と日和見主義でするものではない。大衆の反応はある程度仕方ないとして、感情論に動かされず、長期的観点からの国益を国民に説くのが政治のリーダーシップであり、メディア、特に新聞の使命でなくてはならない。
【『電気新聞』2003年12月11日時評「ウェーブ」欄】