2006年11月23日
英語教育と愛国心
幼稚園でも英語ブームだ。幼児たちが怪しげな発音で英語遊びをしている。「外国語は幼少時から親しんだ方が身につく」という俗説がまかり通っているからだ。問題は「親しみ方」で、普段日本語だけの生活環境で、短時間だけ真似ごとをしても身につくものではない。英語を早期に学習している小学生としていない小学生を追跡調査したところ、ヒヤリングも読解力も両者に全く差異はなかったという結果が出ている。いくら水辺でパチャパチャ遊び回っても泳げるようにはならないのと同じだ。
私は自らの経験から、幼少時期における英語学習には賛成できない。理由は単純。日本国民1億3000万が英語を喋る必要はないからだ。将来、仕事のためや個性・才能を伸ばすために英語を話し、英語で討論する必要に迫られる日本人は全人口のせいぜい1割程度だろう。親の感化で早期学習を始めるもよし、本人が興味をもって始めるもよし、街には英語塾が溢れ、視聴覚教材に事欠かない。
海外旅行をする日本人は年間1700万に達するが、観光や買物だけのためなら従来の英語教育に会話能力を多少加味するだけで十分だ。自動翻訳機の普及で簡単な意思疎通はIT器材がやってくれるようになっている。
日本語の読み書きも、算数の足し算、掛け算すらもろくにできない児童たちに、たまたまアングロ・サクソン民族の母語である英語をありがたがって学校教育で教える必要は毛頭ない。諸外国でも英語学習の低年齢化が進んでいるが、やはり効果をあげているとはいえない。
西欧諸国はアーリア系民族なので、母語が英語に近いという利点があり、身につきやすい。OECD(経済協力開発機構)の調査で、教育効果の高い国として評価されているフィンランドは、英語の普及度が近隣諸国に比べて著しく低い。一般市民はほとんど英語をしゃべれない。言葉のルーツが日本語と同じくモンゴル系で、英語と極端に異なり、難しいからだ。しかしそれでフィンランド人の国際化が遅れているわけではない。
外国語というのは、目的があり、動機づけがあって、集中的に、真剣に学習すれば身につく。幼稚園児のときから英語ごっこをするより、高校時代に1年間留学した方がはるかに効率的だ。大学生になってからでも遅くない。これは私自身の経験でもある。苦労はするが、その代わり確実に身につく。大学受験の際、単語を丸暗記して語彙を増やしておくのがのちに大いに役に立つ。
日本語が母語である以上、母語によるコミュニケーション能力習得が外国語学習に優先すべきことは当然。たとえばASEAN(東南アジア諸国連合)が英語教育に熱心なのは、学術研究と応用の成果を自国語で消化できず教材が揃っていないという事情がある。日本ではすべて日本語で習得し、表現することができる。日本の大学の授業はすべて日本語で行われており、これが教育の国際化を阻んでいるが、専門知識の基礎があれば留学してから英語の授業もフォローしやすい。
かといって私は国粋主義者ではない。「国際人とは、日本の歴史と伝統に精通し、国民としての自覚をもつ日本人」などという時代錯誤の定義を振り回す気はない。国連職員10年の経験から私は「国際人とは良い日本人」などと思ったことは一度もない。そんな思いをさせられたこともない。
要は、心根のやさしい、暖かい人間であるかどうかだ。幼児期に教え込まねばならないことは、第1に、命の尊さと弱者への思いやりだ。これこそ平和教育・人権教育の原点だ。第2に、自然の恵みを大事にして、自然と共生すること、これは環境教育の原点だ。人間と自然に対する思いやりに欠ける子どもが英語ばかりペラペラまくし立てられても、百害あって一利なしであろう。
何より必要なことは、人種・民族・国籍を超えて、豊かな感受性をもつ人間であるということだ。愛国心も強制すべきものとは思わない。愛国心は、海外留学、海外生活をひとたび経験すれば、否応なしに自然発生的に心に芽生え、態度物腰ににじみ出てくるものだ。
【『教育新聞』2006年11月23日付】