2006年6月22日
エリート教育に代わるリーダーシップ教育を!
2006年5月28日付け「読売新聞」に掲載された教育問題をめぐる世論調査によると、日本国民の53%がエリート教育に反対している。賛成は40%だ。
言葉がよくない。エリートというフランス語は、権力志向の強い、鼻持ちならぬ特権階級の子弟を連想させ、非民主主義的な響きをもつのだろう。エリートとは「選ばれた者」という意味だが、誰が何のためにいかなる基準で選ばれたのかが明示され、そのプロセスに透明性がなければならない。
中世の封建社会では、エリートは貴族だった。「貴族が選ばれた者である以上、より大きな義務を果たさなければならない」という意味で、ノブレスオブリージュ(Noblesse oblige)という言葉が生まれた。前線で兵を率いて命を賭けて戦うのもノブレスオブリージュとされた。それは国王のため、キリスト教の神のためだった。しかし、貴族は世襲であり、特定の家系の既得権だった。
近代社会になって、国家が国民のなかから非世襲の高級官僚を養成するようになった。ナポレオンがエリート養成のためにグランドゼコール(大学校)は設立した。プロシャ帝国も模倣し、明治維新政府もそれに倣って、全国に帝国大学を建てた。これが東京帝国大学をピラミッドの頂点とする戦前の日本のエリート教育だ。
戦後の教育はこの全否定から始まった。教育の機会均等が叫ばれ、希望者全員に高等教育の門戸が開放され、日本全体が高学歴社会になったのは結構だ。学歴否定、実力主義の風潮も悪くない。その弊害が悪平等と学力低下で、日本の中高生の学力は、国際比較で香港、シンガポール、韓国の後塵を拝している。エリート教育否定のためにリーダーも不在だ。
エリートという手垢のついた言葉はやめて、リーダーシップと言おう。どの時代にも、どの国、どの社会にも、リーダーが必要なのだ。リーダー不在だと衆愚政治に陥り、国も社会も迷走する。民衆は神がかりの教祖や狂信的な独裁者に惑わされかねない。
21世紀のリーダーはどうあるべきか。教育基本法改正をめぐって国論二分の議論が行われているが、適度の愛国心は不可欠として、グローバルな視野をもち、国際社会における日本のあり方や日本人の貢献の仕方を常に考えるリーダーでなければならない。アジアの近隣諸国の隣人たちとの良好な関係はいうまでもない。
つまり、まず明確な理念が求められる。世界平和、人権尊重、貧困追放、環境保全・・・これが地球社会が現在直面している課題である。国内の不正、不平等、格差の解消もさることながら、ボーダレス時代の人類共生のために、これらの地球規模の課題と取り組み、自らを投げ打ち、実践活動の先頭に立つ人間でなくてはならない。
次に、教育基本法改正案では与野党とも公徳心の必要を説いているが、リーダーに求められるのは、公徳心というより、素朴な人間愛と思いやりの心だ。必要なのは、エリート意識ではなく、リーダーシップの自覚と責任であろう。
最近、小泉首相が引用して話題となったが、チャーリー・チャップリンの往年の名画『ライムライト』の中で、主人公の吐くセリフに「人生に必要なもの、愛と勇気と多少のお金」というのがある。小泉首相は、これを「夢と希望とおカネ」と誤って引用していたが、リーダーに必要なもの、それは何よりも、「愛」と「勇」と「理想」だと思う。
【『教育新聞』2006年6月22日付「オピニオン」欄】