2006年5月01日
愛国心は強制するな
イチローと私の愛国心
ことし3月のWBC(世界野球クラシック)に、米大リーグのマリナーズから日本チームに参加したイチロー選手が、アジア地区予選で韓国に連敗した時には「わが野球人生最大の屈辱」と言って口惜しがり、優勝した時には全身で喜びを表わし、「こんな素晴らしい仲間達と一年間一緒にプレーしたい」と語っていたことが話題になった。イチローといえば、コツコツとヒットを打ち、黙々とプレーする孤高の選手と思われていたからだ。
その豹変ぶりを日本の新聞は、在米生活が5年に達し、ホームシックにかかってきたからとか、マリナーズが弱小球団のゆえに優勝経験がなく、それだけに勝負にこだわったからとかで分析していたが、国籍別のトーナメントもなれば出身国のために全力でプレーするのは当然のことだ。大リーグでイチローは日本を代表してプレーしているわけではないが、外国人選手に囲まれていると、いやおうなしに日本人であることを意識させられる。
国連職員として10年間、異文化集団に身をさらしていた私も、たえず日本人であることの意味を自らに問い、答えを模索し続けた。私が到達した結論は「アジアへの回帰」であり、具体的には日中・日韓・日朝関係の友好と相互理解促進だった。国連勤務から帰国後、ソウル、ピョンヤン、北京に頻繁に足を運び、多くの友人を作った。彼らと歴史認識を共有することが「良き日本の市民」としての務めだと私は信じている。私は誰にも負けない愛国者だ。
愛国心というのは、国民教育によって強制されるべきものではなく、自然な感情の発露として内面からほとばしり出るものだ。異文化体験を通して自覚するアイデンティティーの根幹をなすものが愛国心だ。愛国心は、多文化共生の原点であり、人間愛だ。統治機構としての「国家」は論外で、単に「わが国」と郷土を愛することでもない。
映画『ホテル・ルワンダ』が説く人類愛
映画『ホテル・ルワンダ』の主人公ポールはフツ族、妻タチアナはツチ族。彼らの夫婦愛、家族愛が「人為的な」部族・民族差別を超えて、ルワンダ人として、さらにアフリカ人としての同胞愛、人類愛につながっていることを映画は訴える。徒手空拳のホテル支配人ポールは敵味方を分けへだてしないホスピタリティー(接客精神)と同胞愛で虐殺を生き延び、最後に自由と平和を勝ち取る。
ルワンダの惨劇を生き抜いた実在の人物に題材を求めた名作である。
自公の改正案は妥協の産物
教育基本法の改正案が自公の連立与党間でまとまった。問題の前文の該当部分(教育の目標)はこうなっている。
伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う。
文章のつながりも悪く、いかにも寄木細工然として中途半端だ。戦前・戦中の国家主義の復活を思わせるとして、「愛国心」という言葉を排除させた公明党の努力には敬意を表するが、おかげで回りくどい日本語になった。「我が国」が統治機構としての国家でないなら、郷土とどう違うのか。「国際社会の平和と発展に寄与する態度」というのも抽象的で意味不明だ。「国際社会の平和」とは何か。「世界平和」と言えばよいではないか。「国際社会の発展」という日本語もあいまいだ。何が「発展」なのかわからない。
憲法改正に先立つ教育基本法改正は本末転倒
教育基本法は「教育における憲法」だ。民主党の鳩山由紀夫幹事長は、「まず憲法を改正して、それと整合性のある教育基本法であるべきだ」と主張しているが、その通り。まず憲法で、日本のあるべき姿を描き出してから、しからば教育はいかにあるべきかを論じ、必要に応じて改正すべきであろう。
すでに自民党は昨年10月、憲法改正案を発表しているが、公明党も野党・民主党も具体的な改憲案を公表し、国民的議論を開始し、将来の国政選挙の争点にすべきだ。
私は9条の文言の改訂に賛成である。侵略戦争を禁じた第1項はそのまま残すとして、第2項に自衛隊(自民党案では「自衛軍」)の保持を明記し、これを自衛とともに、国連の平和維持活動に参加させることで、いわゆる「国際貢献」をすることを憲法上の義務とすべきだと思う。自民党案では「国際的に協調して行われる活動」となっており、これでは米軍主導の「有志連合」などの多国籍軍も含まれてしまう。国連の平和維持・平和構築活動に限定すべきだ。こうした憲法上の規定が明確になれば、教育基本法の説く人物像も具体的になる。
「教育」という日本語訳は不適切
今回の改正案には、「生涯学習の理念」「自立心を育成するための家庭教育」「学校・家庭・地域住民の連携協力」などの重要性が強調されている点は評価すべきだが、そもそも「教育」という日本語がよくない。
英語でもフランス語でも education といえば、「子どもの素質・能力を伸ばし、可能性を引き出す」ことを意味する。国家(を代表する教育者)が「教え、育てる」わけではない。そういう時代は過去の遺物だ。「教育」とは、およそ権威主義的な訳語である。教育現場の指針としての「学習指導要領」はよろしい。教育基本法も、あくまでも生徒・学生の主体的な学習のための手引きであるべきだ。
【『ポリシーフォーラム』N0.28 (2006年5月1日号)】