2004年9月13日
小学生に英語教育は必要ない(4)
今回は連載の最終回として、幼稚園・小学校で英語を学ばせてもあまり効果がない根本的理由として、自己表現と積極的意思表示にブレーキをかける日本社会の伝統があることを指摘しておこう。日本人社会のベクトルは「出る杭は打つ」方向に働き、「以心伝心」「言わぬが花」を美徳とする。日本語は主語がなくても通じるが、欧米語はそうはいかない。
英語民族をはじめ、欧米人社会は個人の存在の大前提として自己表現を要求し、自己宣伝も自己顕示欲も肯定する。「巧言令色仁多し」「美辞麗句をつかうべし」なのだ。欧米人社会に限らない。
国連に「そこのけ、そこのけ、イン・パキが通る」という陰口がある。どこにでも、何にでも顔を出し、口をさしはさむインド人・パキスタン人を評していう。彼らには「言わぬが花」などという美徳は通用しない。彼らの英語はベランメエで、Rの音は鋭い巻き舌でラッパのごとく響く。アラブ人もアフリカ人も、血相を変えて反論し、鋭く切り込んでくる。
国連には191カ国が加盟しており、総会はまさに地球規模の議会の様相を呈するが、日本代表は訓令どおりの発言しかせず、余計なことには一切口をさしはさまない。ひとむかし前まで、日本代表団はスリーS(sleep, smile, silence=居眠り、ニヤニヤ笑い、ダンマリ)で有名だった。最近は汚名返上したが、丁々発止の議論はほとんどしない。北朝鮮の日本非難に、答弁権を駆使して反論するときくらいだ。
北朝鮮だけは戦闘的だが、日本、韓国、中国という東アジア諸国では儒教の伝統が根強く、論争を避け、対決を回避し、年功序列と家父長制の秩序を重んじ、上意下達で解決を図ろうとする傾向がある。大事な議案も根回しでほぼケリがついていて、会議は単なるセレモニー(儀式)の場と化す。
だから集団全体で責任をとらず、局外者・部外者に責任をなすりつける。ネポティズム(縁故主義)と権威主義がハバを利かす。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の蔭」の処世術が支配する。
特に四囲を海で隔絶された島国に住む日本人は土着性の高い農耕民族なので、自己主張を慎み、言葉をとおしての論戦で決着をはかるという慣行が確立しなかった。
だから弁論術も発達せず、ディベート(討論)術を磨くという訓練も行われなかった。家族団らんの夕餉のひとときも、黙々と食事をする民族は、世界で日本人くらいのものだ。
議論せず、論戦せず、意見の交換すらいしない日本人が、小学生のうちから英語だけ学んだところで何の役にも立たない。英会話ゴッコにすぎない。彼らを取り巻く社会は「もの言えば唇寒し」の世の中なのだから。社会全体が、おしゃべり、でしゃばりを好ましいこととして受け入れ、「沈黙は金」でなく、「雄弁こそ金」にならないと英語習得は根づかない。
若い世代の日本人は、ワープロと携帯電話のおかげで、かえって自己表現能力が退化し、「ボキャ貧」(ボキャブラリー貧困)に陥っているのではなかろうか。そんな日本人に英語もフランス語も身につく筈がないではないか。
エドモン・ロスタン原作の『シラノ・ド・ベルジュラック』で、稀代の醜男シラノは訥弁の美男子クリスチャンに代わって、木蔭から即興詩を朗々と謳い上げ、ロクサーヌ姫の心をつかみ、クリスチャンの恋を成就させる。行動ではなく、コトバが人を動かすのだ。
日本社会が、義理人情やカネでなく、眞・善・美と論理で動くとき、英語やフランス語を学ぶ日本人の労苦ははじめて報われ、国際社会における日本人の発言力はもっと高まるだろう。英語を学ぶだけでなく、社会全体を変える努力が不可欠なのだ。これもグローバル化である。
【『教育新聞』2004年9月13日付】