2004年9月02日
小学生に英語教育は必要ない(3)
前回は、外国語学習におけることわざとジョークの効用を説き、意味を理解した上で暗記することが役立つという経験談を披露したが、私の国連職員時代に職場で流行させたことわざにオニをめぐる話があるので、これをご紹介しよう。
西洋にはオニは存在しない。存在するのは悪魔だ。悪魔は神の対極にある絶対悪だが、日本の民話や伝説に登場するオニには人情がある。「オニの目にも涙」とか、「オニも18、番茶も出花」というではないか。私は職場で「オニ部長」と陰口を叩かれていたが、もっぱらオニの人情論を説いて、人心掌握と懐柔につとめた。
彼らは部長の私が出張だというと、「オニの居ない間に洗濯」といって仕事をさぼり、風をひいて休むと「オニのかく乱」だといって喜んだ。そこで私は、「わたしがいるから、君たちはオニに金棒なのだ。渡る世間にオニはなしともいうではないか」と反論し、大笑いになった。日本のことわざには、外国にも共通する表現が多々あるが、オニに関してはいちいち翻訳しないといけない。ことわざを通して異文化理解は進む。
もうひとつ、「結婚は人生の墓場」ということわざがある。私はてっきり欧米の格言と確信していたが、さにあらず、職場の部下たち30人のうち、誰一人として聞いたことがないという。シェークスピアにもモリエールにもない。ロンドン大学文学部卒の英国人課長が「いろいろ調べてみたが、これは日本のことわざだ」との結論を出し、おかげで国連で一時期、流行した。
最初は同僚の娘の結婚披露パーティーでスピーチを頼まれた私が、「結婚は人生の墓場というが、わたしの経験ではそんなことはない。むしろ本当の人生の始まりだ」とユーモアたっぷりに一席ぶったのだが、皆けげんな表情で顔を見合わせていた。「人生の墓場」などとは言わないという。ところが、ある日、ハイミスの秘書が深刻な顔をして、休暇を欲しいという。理由を聞くと、「人生の墓場に入るから」。私は早速、自腹を切ってシャンペンを買い、「墓場入り、おめでとう」と職場のパーティーで乾杯した。
話が横道に外れたが、21世紀は否が応でもグローバル化が進み、世界は一体化し、地球市民社会が出現するだろう。コンピューター技術の普及による情報革命は英語を世界語にのし上げた。現代のリングア・フランカ(共通語)である。
「トラは死して皮を残す」というが、かつて世界の7つの海に君臨しながらも、20世紀後半から没落した大英帝国は、人類社会に英語という財産を残した。これも唯一超大国となった米国のおかげである。
政治・経済・科学・文化のあらゆる領域で英語全盛だが、だからといって日本国民全員がひとり残らず英語を読み、書き、しゃべれるようにならねばならないということではない。外交・通商・貿易で諸外国と交渉し、文化交流で接触する当事者が引けをとらないだけのコミュニケーション能力を身につけていればいいのだ。
コミュニケーション能力というのは、意志伝達と相手理解の双方向性の受信発信能力を意味し、しゃべれるだけの能力ではない。一定レベル以上の能力を要求されるが、同時に相手の人間性に対する洞察力、異文化理解の包容力、そのための幅広い教養が求められる。単なる英語学習で身につくものではない。
同時に、コンピューター技術の発達によって、簡単な英会話などは、近い将来、携帯電話サイズの同時通訳器が代行してくれるようになるだろう。観光旅行はそれで十分だ。
私は英語公用語化論には断固反対だ。スウェーデンでは、小学生もタクシーの運転手も流暢な英語をしゃべるが、スウェーデン語と英語がもともとよく似ていて、方言の違い程度しかないからだ。インドでは、貧民窟の住民も地方の農民もカタコトの英語をしゃべるが、インド亜大陸が長い間、英国の植民地で、共通の国語が存在しないからだ。ヒンディー語を国語にできず、止むを得ず英語を公用語にしているにすぎない。インドのような国は、第三世界の旧植民地に数限りなくある。けっして羨むべきことではない。
【『教育新聞』2004年9月2日付】