2006年4月27日
チェルノブイリ事故とIAEA
チェルノブイリ事故20周年を迎えてメディアがさまざまな特集を組んでいる。暴走した4号炉を覆う石棺は老朽化が進み、崩壊一歩手前にある。甲状腺がんに苦しむ住民はあとを絶たず、今も半径30キロ圏内は居住禁止になっている。それでも農民は住みなれた土地を離れられず、被曝覚悟で住み続ける。
IAEA(国際原子力機関)とWHO(世界保健機関)は、放射線被曝による死者の累計予測を、昨年9月に4000人と発表したが、その後9000人に修正した。正確な実態の把握は困難で専門家の予測も一致していない。国際環境保護団体グリーンピースは国連機関は過小評価していると批判し、事故起因のがん患者を累計27万人、死者を9万3000人と推測している。
チェルノブイリ後遺症を強調するのは反原発感情を助長することになると憂慮する人びとがいるが、私はいくら強調してもいいと思う。
肝心なことは、そこから私たちが何を学び、何を教訓として得たかということだ。その点テレビも新聞も、ウクライナとベラルーシの住民の被曝の影響とずさんな放射線管理を告発するばかりで、人類史的視点に立つ解説がないのは残念だ。
最大の"成果"は、硬直した社会主義体制下の秘密主義を破綻させ、登場まもないゴルバチョフのグラスノースチ(情報公開)を加速させたことだ。極論すればチェルノブイリ事故がソ連を崩壊させたのだ。放射能はボーダーレスだ。まさにグローバルな規模で広がる。事故の第一報はセシウム134の異常値を感知したスウェーデンからもたらされた。ソ連当局は3日後ようやく事故の全貌を公表した。
次に、国際協力を不可避にし、IAEAの役割が飛躍的に高まったことだ。IAEA頼みは、国連信仰の強い日本人ばかりではない。当時のソ連当局もIAEAの権威と信頼性を最大限に利用した。クレムリンはブリクス事務局長(当時)をいち早く現地に招き、迅速な復旧ぶりを内外に示そうと試みた。スウェーデン外相も勤めた役者のブリクスは期待に応えて、「死者は火傷した消防士らわずか31名」と記者会見で繰り返し、4号炉近くの畑にぶら下がっていたキュウリをモリモリ食べて見せた。「あんなまずいキュウリは初めてだったよ」と彼は部下の私に告白した。
1986年8月、私は「チェルノブイリ事故再検討会議」のウィーン開催に忙殺された。「テーマとして米国のTMI事故も取り上げ、会議名からチェルノブイリを削除せよ」とモスクワから圧力がかかり、IAEAは妥協した。米国も受け入れた。さらにソ連は事故原因と対策をすべてIAEAに報告する形をとり、「会議はすべて非公開にせよ」と要求してきた。世界各地から500人の記者団がウィーンに集まっていた。私はソ連の大使に「秘密主義は誤解と疑惑を生み、世界の原子力産業に悪影響を及ぼす。貴国のゴルバチョフ閣下が進めているグラスノースチの原則にも反する」と訴え、会議そのものは非公開ながら毎日ソ連の専門家が記者会見に応じる」という妥協案を引き出した。板ばさみになっていたブリクス氏が満足げにうなずいた。彼に誉められたのは、あとにも先にもこの時だけだった。
もうひとつの副産物は、IAEA全加盟国の代表が夏休み返上で酷暑のウィーンに頑張り、わずか3週間で、原発事故の「早期通報」と「相互援助」を義務づけた二つの国際条約を仕上げ、9月からの総会で承認に持ち込んだことだ。2条約はその年のうちに発効した。このようなスピード審議は国連史上にも例を見ない。安全確保と被害最小化のための国際協力の義務化、これこそがチェルノブイリの最大の教訓である。「安全文化」(セーフティーカルチャー)もこのとき生まれ、流行した言葉だ。まもなく事務局に「原子力安全局」が誕生、「保障措置」と並んでIAEAの目玉商品となって今日に至っていることを付言しておこう。
【『電気新聞』2006年4月27日付「時評」ウェーブ欄】