2004年7月30日
クジラと原子力発電
米国の哲学者ラングトン・ウィナーの著作に『鯨と原子炉』(紀伊国屋書店刊)という警世の書がある。人類が自らに技術の限界を知らしめる必要を説いた文明批評で、クジラは「こんな状態を放置してよいのか」と人間に問いかける存在として文中に登場する。
私のウィーン在勤中、IAEA(国際原子力機関)の技術支援部長として活躍した故・栗原善弘氏は技術畑には珍しい機知に富む雄弁家で、宴席のスピーチでしばしば「原子力=クジラ」論を開陳して同僚や部下をけむりに巻いた。「クジラは乱獲で、原子力は反原発運動で、それぞれ存続が危うくなってきた。クジラも原子力もともに大きな図体をもてあましているので、手厚く保護してやらないと、やがて恐竜と同じ運命を辿るだろう」というのが栗原氏の持論だった。
1980年代は国際捕鯨条約によって商業捕鯨が禁止され、他方、チェルノブイリ事故によって脱原発の動きが欧米諸国で加速された時期だった。国際環境保護団体グリーンピースが捕鯨禁止と反原発の急先鋒だった。「クジラも原子力も」という栗原氏の願いは叶わず、クジラだけが手厚く保護された。
日本と西欧諸国の脱原発の大きな流れは止まりそうにないが、捕鯨禁止の国際世論の風向きはわずかながら変化してきた。去る7月20日からイタリアのソレントで開催されたIWC(国際捕鯨委員会)総会では、捕鯨枠拡大を求める日本提案は採択に必要な4分の3の多数は得られなかったものの、賛否の票差が接近し、もう一息で形勢逆転というところまで近づいてきた。日本政府代表が総会副議長に選出されるという異例の事態も起きた。
現在、IWC加盟国は57カ国だが、捕鯨とは縁もゆかりもない途上国、内陸国が多数派工作の一環として次々に加盟、今回もモーリタニア、ツバル、コートジボワール、スリナムが新規加盟した。(これはNPT無期限延長の際、米国などが核・原子力と縁もゆかりもないアフリカや南太平洋の小国を次々に加盟させたのと同じ理屈である。)
ただし、これら捕鯨と無縁の国ぐには従来欧米追随だったが、しだいに科学的根拠なしにやみくもにクジラを保護しようという感情論には同意しなくなってきた。
IWCの本来の目的は「捕鯨産業の秩序ある発展」にあり、第二次大戦後、捕鯨国の利害の調整のために設立されたのだが、80年代からは環境保護運動の延長上に捕鯨全面禁止運動を持ち込み、日本などの捕鯨国を追いつめてきた。捕鯨国は現在、日本のほかノルウェー、アイスランドくらいしかなく、環境保護を掲げる米国、EU(欧州連合)中心の「反捕鯨」大連合に太刀打ちできず、南氷洋の聖域化(捕鯨完全禁止)はもとより沿岸捕鯨も規制され、日本の捕鯨産業は壊滅寸前、鯨肉はわれわれの食卓から遠ざかっている。
「人間と同じに賢い哺乳動物であるクジラを殺して食べる日本人は野蛮で残忍」という宣伝文句が受けて、グリーンピースなどの環境保護団体には巨額の運動資金が集まり、「反捕鯨」大連合ができあがった。彼らは自分たちはウシやヒツジの肉は食うが、クジラは食わないというだけの理由で、欧米流食文化のみを正当化しよとしているのが特徴だ。
これに対し、国内にもクジラこそ日本の伝統的食文化だとする感情論が存在するが、実情は必ずしもそうではない。現代の日本人はクジラなしの生活に何の支障も感じないし、鯨肉に郷愁をおぼえるのは中高年の一部だけだ。日米漁業交渉で、日本政府が米国沿岸の北洋漁業の権益確保と引き換えに捕鯨放棄を米国に申し出た経緯もある。死守しなければならないほどの伝統産業ではない。
国連でもIWCでも、欧米諸国は自己中心的であり、彼らの価値観とルールを押しつけてくる。これに対抗するには、感情論に走らず、科学的データを集めて、粘り強く、非キリスト教圏・非白人社会を味方につけて、時間をかけて勝負する以外にない。IWCソレント総会の風向きの変化は、20年間の日本政府の孤独な戦いがようやく報われる兆しが表われたといえそうだ。
【『電気新聞』2004年7月30日付時評「ウェーブ」欄】