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プロフィール

吉田 康彦

吉田 康彦

1936年東京生まれ
埼玉県立浦和高校卒
東京大学文学部卒
NHK記者となり、ジュネーヴ支局長、国際局報道部次長などを歴任

1982年国連職員に転じ、ニューヨーク、ジュネーヴ、ウィーンに10年間勤務

1986−89年
IAEA (国際原子力機関)広報部長

1993−2001年
埼玉大学教授
(国際関係論担当)
2001-2006年
大阪経済法科大学教授
(平和学・現代アジア論担当)

現在、
同大学アジア太平洋研究センター客員教授

核・エネルギー問題情報センター常任理事
(『NERIC NEWS』 編集長)

NPO法人「放射線教育フォーラム」顧問

「21世紀政策構想フォーラム」共同代表
(『ポリシーフォーラム』編集長)

「北朝鮮人道支援の会」代表

「自主・平和・民主のための国民連合・東京」世話人

日朝国交正常化全国連絡会顧問

学歴・職歴

北朝鮮人道支援の会

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北朝鮮
TOP > 北朝鮮 > 日朝国交正常化を阻む壁

2004年10月01日

日朝国交正常化を阻む壁

「近くて遠い国」北朝鮮

 訪朝するたびに、「北朝鮮と日本は近くて遠い国だから、これを近くて近い国にしなければならない」と挨拶を交すのが日朝両関係者の慣例になっている。冷戦終結後15年、日本と北朝鮮はいまだに「近くて遠い国」だ。

 「近い」というのは、小泉首相が、2002年9月と2004年5月、すでに2回にわたって日帰り訪問を敢行したことでも実証されているとおり、羽田から直行便なら2時間20分で到着する。航空機の機種にもよろうが、同時刻に羽田を出発して那覇(沖縄)に向かった便はまだ到着していない。名古屋と平壌の間を不定期の直行便が往復していた頃は便利だった。

 それがなぜ「遠い」のか。北朝鮮は、191の国連加盟国のなかで日本が国交をもっていない唯一の独立国である。日朝国交正常化交渉が1991年1月、平壌で始まってから14年目になるが、正常化は実現していない。それどころか関係は緊張している。障害は核と拉致だ。

 米朝間では核とミサイルが最大の懸案なのに対し、日本国民にとっては拉致問題が立ちはだかっている。北朝鮮は日本政府の敵視政策が障壁になっていると主張する。

 世界全体でも、北朝鮮と国交のないのは、日米両国のほかはフランスくらいだ。フランスは北朝鮮国内の人権状況を問題にしているが、EU(欧州連合)としては北朝鮮と国交樹立ずみで、KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)への出資、人道的食糧・医療支援には異議を唱えていない。

 小泉首相は2006年9月までの任期中に日朝国交正常化を実現する決意を表明しているが、前途は険しい。以下、過去の日朝関係を回顧しながら、将来展望を試みよう。

南北分断の悲劇と日韓正常化の歩み

 韓国でも、北朝鮮でも、「南北分断は日本に責任があるのに、日本はこれを認めようとしない」という日本責任論が古い世代にくすぶっている。しかし国際法は過去の因果関係に価値判断は下さない。日本の責任が問われるのは1910年から45年までの植民地支配に対してであり、それも日本が第二次世界大戦で敗戦国になったからだ。植民地支配そのものに謝罪した西欧列強はどこもない。

 アジア・アフリカ・ラテンアメリカの低開発地域の植民地化は、15世紀の大航海時代いらい西欧列強が覇を競い、正当化してきたもので、20世紀の二度の世界大戦は植民地争奪戦のクライマックスだった。西欧列強による植民地化は、先住民固有の文化に対しての武力によるキリスト教的価値観の押し付けだったが、西欧は未開社会の文明開化として普遍化し、正当化した。同時に市場と資源の確保という一石二鳥の効果をもたらすものだった。西欧列強は鉄砲と聖書で世界を制覇したのだ。

 ところが朝鮮民族は、ともに中国文化をルーツとしながらも、日本に優る独自の文化を成熟させたと自負する誇り高い民族だっただけに、日本による植民地化には強い抵抗があった。彼らにとって日本は辺境の島国でしかなかったからだ。秀吉は二度の「朝鮮征伐」に失敗した。

 第二次大戦はパラダイムの大転換をもたらした。ナチスドイツによるユダヤ民族大虐殺の結果、「人権」意識が高まり、民族自決権が公認された。戦後発足した国連はまず「世界人権宣言」を採択し、次いで先進諸国は植民地独立付与に踏み切った。1960年の国連総会は「植民地の人民に独立を付与する宣言」を採択、そこでようやく非植民地化が世界の流れとなった。

 したがって、大戦前あるいは大戦中に日本が西欧列強に伍して朝鮮半島を植民地化したことに違法性はないというのが日本政府の公式見解である。1910年の日韓併合条約の締結には、その背景に強制性があったにせよ、法的には有効だったというのが政府見解だ。

 日本による植民地化がなければ今日の南北分断がなかったことは事実だ。第二次大戦さなかの1943年、米英中の3国は「カイロ宣言」で「朝鮮の自由と独立」を保証し、この公約はまがりなりにも履行された。しかし、戦後の米ソ対立のあおりを受けて、南北に二つの分断国家が並立するという事態を招いたのだった。

 これは確かに民族の不幸ではあるが、日本に法的責任はない。分断したのは米ソという二超大国の国家エゴだ。日本という国家が負うべきは道義的責任である。植民地化に対しても、分断に対しても、日本人には遺憾ながらこの歴史認識が希薄すぎる。

 しかも日本は朝鮮戦争(1950−53年)で「漁夫の利」を占め、朝鮮特需で輸出産業が潤い、その後の高度成長への弾みをつけたのに対し、朝鮮半島では同一民族同士が殺し合い、今日なお1000万からの離散家族が南北に存在している事実は同情に値する。南北間では拉致などはお互いに日常茶飯事だったのだ。現在も確認されただけで486人の韓国人拉致被害者が「北」に拘留されている。その逆も真なりで、韓国の情報機関は、のちに自国の大統領となる人物(金大中氏)を白昼堂々と東京のホテルから拉致しているし、韓国が「北」に刺客を送り込み、金日成主席暗殺を企てたことは最近の映画『シルミド』に描かれている。

 米ソ冷戦の激化のなかで、反共同盟国として日韓両国の和解と協力を望む米国は日韓国交正常化実現に圧力をかけた。韓国は仕方なく法律論を棚上げし、名を捨てて実をとる道を選んで正常化に応じた。 

 日韓国交正常化は1965年の日韓基本条約署名で実現したが、52年の交渉開始いらい足かけ14年の歳月を要した。しかも日本は過去の植民地支配に謝罪せず、椎名悦三郎外相がソウル空港で「遺憾の意」表明しただけでお茶を濁した。謝罪していない以上、補償もせず、経済協力という形で有償・無償合わせて5億ドル供与で正常化にこぎつけた。このとき韓国民の不満を抑えたのは朴正熙大統領だった。彼はこの5億ドルをバネにして開発独裁の道をひた走り、その後の韓国の高度経済成長の基礎を築いた。

 日本が韓国に正式に謝罪したのは1998年で、金大中大統領訪日の際、未来志向の日韓共同宣言に合意した際、小渕恵三首相が表明したのが初めてである。2002年9月の小泉訪朝時の「平壌共同宣言」で北朝鮮もこの前例を踏襲したのだ。ブッシュ米政権の強硬策で米朝関係が膠着し、日本に活路を求めたというのが本音であろう。北朝鮮としては謝罪は勝ち取ったが、賠償・補償は放棄し、「経済協力」方式を受け入れたわけである。

 金大中政権いらいの日本文化開放で日韓関係は親密となり、昨今は特に「冬ソナ」フィーバーで韓国を訪れる中高年の日本女性が激増、空前の「韓流ブーム」が出現し、主演女優が小泉首相に会見したりしているが、これは表面だけの現象で、一触即発で日韓関係は緊張する危うさを秘めている。

 小泉首相は毎年、靖国神社参拝を続けているし、竹島の帰属問題は両国のナショナリズムに火をつける。容易に緊張が生じるのは、何よりも両国民の歴史認識が異なるからだ。異なるというより、日本国民の側に、近隣のアジア諸国の植民地化あるいは侵略に対する反省の上に立った歴史認識が希薄なのだ。

 逆に、日本の植民地支配を美化し、肯定する国粋主義的歴史認識と大国意識が日本では急速に広まっている。これを加速させているのが「北朝鮮の脅威」だ。さらに拉致問題の全容解明のないかぎり国交正常化に反対する勢力が根を張っている。

日朝国交正常化が実現しない理由/高崎宗司氏の分析の誤り

 今日まで日朝国交正常化の気運が高まった時期は何回かある。高崎宗司氏(津田塾大学教授)は、近著『検証・日朝交渉』(平凡社新書)で、過去に4回存在したとして、(1)1956年11月の日ソ国交回復時、(2)1972年9月の日中国交回復時、(3)1990年9月の金丸訪朝時、(4)2002年9月の小泉首相訪朝時、の4時期を挙げているが、事態はそう簡単ではない。日ソ、日中にならって日朝も、という具合に動くほど朝鮮半島の国際関係は単純ではない。

 高崎氏は「日本政府が北朝鮮を軽視し、韓国を重視したために(機会は)失われた」と記しているが、単に軽視・重視の問題ではない。根はもっと深いところにある。

 (1) の時期は、日韓国交正常化交渉が始まったばかりで、韓国は「分断国家の双方と国交を結ぶことはできない」とする「ハルシュタイン・ドクトリン」(西ドイツが東ドイツとの同時国交樹立を阻止するために打ち出した原則)を南北朝鮮にも適用して断固反対したし、(2)もその延長上にあった。

 この時期に初の南北対話が実現したが、70年代後半には板門店ポプラ事件、朴正熙暗殺などで南北対立が再び激化し、「北」はテロ・ゲリラ戦術で「南」に介入、韓国人民の蜂起を促した。日本は北東アジアにおける米国の反共政策の橋頭堡に位置し、日本人拉致もこの時期に発生している。日本にとって日朝国交正常化という選択肢はあり得なかったのだ。

 その後、韓国が驚異的な経済成長を遂げ、自ら東欧諸国と国交を開くという「北方外交」が功を奏して国際的地位の向上に自信を深めた。(3)の時期に、韓国が初めて「ハルシュタイン原則」の看板を降ろしたために日朝国交正常化交渉開始が可能となった。しかし金丸訪朝団が朝鮮労働党との間に発表した「三党共同宣言」には韓国が異議を唱えた。戦後の日本の(対北)「敵視政策」に対する補償が合意に含まれていたからだった。

 この時期はまた核疑惑が浮上した直後で、衛星写真に写し出された疑惑の施設の存在を持ち出して米国が猛反対した。日本人拉致も発覚、日本側の身元調査要求に対して「北」は全面否定、このため正常化交渉は決裂、2000年の南北首脳会談以降まで両国は対立したまま推移した。

 (4) の時期に、日朝関係の打開を願う北朝鮮は初めて拉致を認め、金正日総書記が謝罪したが、「八人死亡」とう発表が逆効果になり、日本国民が激昂、とても正常化推進を可能にする雰囲気とはならず、現在に至っている。小泉再訪朝で、拉致生存者五人の子どもたちが「帰国」、曽我ひとみさんの夫ジェンキンス氏と二人の娘もジャカルタ経由で「訪日」し、生存者の家族の問題は解決した。現時点では、最初の小泉訪朝の際、「死亡」とされた八人ならびに「入国の事実なし」とされた二人の安否再調査に焦点が移っている。

国交正常化交渉開始以前の日朝関係

 以下、もう少し詳細に回顧してみよう。

 別表の通り、戦後の日朝関係は、1955年2月、朝鮮戦争休戦後の南日外相の声明に端を発する。同声明は「共和国(北朝鮮)は、わが国と友好関係をもとうとするすべての国と正常な関係を樹立する用意があり、まず相互の利益に合致する貿易関係と文化的連携の設定を希望している。日本がわが国とこうした関係を樹立することは両国人民の切なる要望に合致するのみならず、極東の平和維持と国際緊張の緩和に大いに寄与するであろう」というものだった。

 これに応えて、同年10月、第一次訪朝議員団、同年11月、第二次訪朝議員団が相次いで平壌を訪問して最高人民会議常任委員会(国会)常任委員会との共同声明を発表、(1)国交正常化に向けて努力する、(2)国交前の経済・文化交流に着手することなどを確認、初の日朝民間貿易協定に署名した。民間レベルの日朝貿易が翌年から始まった。

 1959年には、日朝赤十字協定にもとづいて在日朝鮮人の祖国帰還事業がスタートした。同年12月、第一次帰国船が新潟港から出航した。1984年の終了時までに帰国した「在日」の人びとは、日本人妻1831人を含めて総数9万3340に達した。日本社会で差別に苦しむ「在日」に対する人道的配慮として、日本の地方自治体、市民団体が積極的に支援したが、北朝鮮当局が労働力不足を補い、特に技術者を確保するのが主目的だった。彼らは祖国帰還後も悲惨な生活を強いられ、これが日本に残っていた「在日」に少しずつ知れ渡るようになると、朝鮮総連の懸命の「ひと集め」にもかかわらず、帰還者数は急速に尻すぼみになっていった。

 その間、日韓国交正常化が実現し、これに反発した北朝鮮は日本を敵視し、日朝関係は完全に冷却化した。北朝鮮は日本の革新勢力に対して「軍国主義」との闘争を呼びかけるなど、対決姿勢を打ち出した。これに対し、米韓両国の縄縛から逃れられない日本政府は日朝国交正常化の意思はないことを再三表明し、距離をおいた。

 1968年、「北」の武装ゲリラが韓国に潜入、ソウルの韓国大統領官邸を襲撃。ゲリラ兵は全員射殺されたが、南北関係は緊張した。それまで朝鮮労働党と協力関係にあった日本共産党は北朝鮮の武装闘争路線と対立して絶縁し、代わって社会党が友党として交流に応じ、これが冷戦後まで続いた。社会党は毎年、大型代表団を平壌に派遣し、日朝国交正常化、米軍撤退、北東アジアの非核化などを共同声明で訴えた。

 1971年、キッシンジャー訪中を機に翌年ニクソン米大統領が訪中し、米中国交正常化が実現した。日本も追随して日中国交正常化にこぎつけ、東アジアに緊張緩和のムードが広がった。その反映として初の南北対話が実現し、与党・自民党議員も加わった「日朝友好促進議員連盟」(日朝議連)が発足、「北」当局との間に「日朝貿易促進に関する合意書」を締結した。

 しかし朝鮮半島は、76年の板門店ポプラ事件(米兵2名の殺害事件)で再び緊張、さらに79年の朴正熙大統領暗殺(部下の韓国中央情報部部長が大統領を射殺)事件のあと全斗煥が粛軍クーデターと称して全権を掌握、全土に戒厳令を布くなど軍部独裁色が強まった。

 これに対して、1980年、民主化を求める学生・労働者らが南部の光州を中心に武器を持って蜂起し、軍隊と衝突して193人(公式発表)の死者を出し、逮捕者2200人に及んだ。これが光州事件である。この間、北朝鮮は工作員を韓国に潜入させ、広範な人民の蜂起を期待して民主化運動への介入を試みた。

 すでに述べたように、日本人拉致はこの前後に頻繁に発生した。日本経由の対南工作、対南浸透は「迂回工作」と呼ばれ、日本人を工作員に仕立てたり、「北」の工作員を日本人になり済ませて韓国に潜入させるために日本人を利用する手段として用いられた。日本人拉致は北朝鮮の国家犯罪として糾弾されねばならず、弁解の余地はないが、南北分断と対立、朝鮮半島をめぐる緊張関係に対して無防備、無関心だった日本政府当局にも自戒が足りなかった点で、日本側に反省の余地はある。「北」の工作員はやすやすと日本列島に潜入しており、亡命工作員は「何の苦労もなかった」と告白している。警備を怠り、これを見逃した日本の地元警察、海上保安庁にも責任の一端があることを忘れてはならない。

冷戦終結と国交正常化交渉のはじまり

 日朝関係が再び動き出したのは、米ソ冷戦終結前夜の1988年である。ソ連にゴルバチョフ政権が登場し、「ペレストロイカ」(改革)、「グラスノースチ」(情報公開)を導入、外には「新思考外交」を展開して、1987年12月、レーガン米政権相手に「INF(中距離核戦力)全廃条約」を締結、本格的デタント(緊張緩和)を迎えつつあった。

 その間、経済的優位を背景に「北方外交」で成果をあげ、東欧諸国と相次いで国交を樹立した韓国は自信を深め、すでに述べたように、「ハルシュタイン原則」に拘泥せず、1988年7月、盧泰愚大統領みずから南北対決の終結を呼びかけ、日朝関係改善にも協力するという声明を発表した。88年12月には、中国の仲介で初の米朝参事官級協議も開かれた。

 これらの動きに触発されて、日本政府もようやく89年1月、朝鮮半島政策に関する見解を発表、「日朝間の懸案について前提条件なしに話し合う用意がある」と述べた。さらに3月、竹下登首相が衆議院予算委員会で、北朝鮮との過去の関係について「反省と遺憾の意」を表わし、「関係改善に努めたい」との意欲を表明した。その際、竹下氏は北朝鮮を「朝鮮民主主義人民共和国」と首相として初めて正式名称で呼んだ。

 以上の経過でわかるとおり、日本には外交のフリーハンドは与えられておらず、米韓両国の動きに左右されてきたというのが現実である。4月に訪朝した田辺誠・社会党副委員長は、訪朝の意向を伝える金丸信・自民党副総裁の書簡を携え、金日成主席に面会した。金主席は竹下発言を歓迎し、金丸訪朝のお膳立てができあがった。

 翌90年9月の金丸・田辺訪朝団の直接の目的は、83年からスパイ容疑で北朝鮮に抑留されていた「第18富士山丸」乗組員釈放要求だったが、金日成主席は釈放に応じただけでなく、いきなり国交正常化交渉を提案、金丸氏は快諾して、年内の予備接触を経て、91年1月、平壌で国交正常化交渉が始まった。

 北朝鮮側の積極性の背景には、ソ連が対「北」援助を大幅に削減して、ハードカレンシー(国際通貨)による支払いを要求、さらに90年には韓国と国交樹立するなど、政治的・経済的に「北」が孤立感を深めつつあったことがあげられる。さらに92年には中国も韓国と国交樹立に踏み切り、「北」の孤立は決定的となるに及んで、日本との関係強化に活路を求めたのだった。

 ところが、日朝国交正常化交渉は、冒頭からきびしい対立で行き詰まり、すでに述べたように、92年11月の第八回会談で決裂、2000年の南北首脳会談開催時まで、7年以上の中断状態が続いた。「北」は、日本の植民地支配の謝罪と償いとともに、「朝鮮は日本と交戦状態にあり、朝鮮が勝利した。したがって戦勝国として日本に賠償を求める」という立場に固執し、日本側と真っ向から対立した。

 他方、日朝関係の進展を快く思わない米国は、核開発の脅威を持ち出して日本を牽制。このため日本としても議題にせざるを得ず、IAEA(国際原子力機関)の査察受け入れなどを迫ったが、「北」は「核問題は米国との交渉議題だ」としてかわし、平行線に終わった。

 決裂の直接の原因は、大韓航空機爆破事件の犯人として韓国側に逮捕された金賢姫という「北」の工作員の日本語教師とされる「李恩恵」という女性の身元照会要求に対し、「北」が反発したことにあった。日本側としては、この女性は「北」の工作員によって拉致された可能性が高いとの警察庁の判断を踏まえて調査を要請したのだが、「北」の代表は烈火のごとく怒って席を立ち、そのまま決裂、中断の運命を辿る結果になった。

 交渉にあたった日本代表団筋によると、「李恩恵」問題は本会談から切り離し、次席代表レベルで扱い、北朝鮮側は「調査する」と回答することでその場を収めて、実質的な議題を検討するという事前のお膳立てができていたにもかかわらず、「北」はこれを無視して交渉決裂に持ち込んだのが舞台裏の真相だという。とすると、「北」はこの時点で日本との交渉に見切りをつけ、対米交渉一本槍に路線転換したものと見られる。折しもクリントン政権が米朝高官協議に応じた時期だった。

 交渉決裂後も北朝鮮は、日本からの訪朝団に対し拉致の事実はあくまでも認めなかったが、1998年3月、ようやく「行方不明者」として捜索することに同意した。しかし、回答はいつも「該当者なし」というものだった。2000年8月、交渉再開後も「捜索したが、わからなかった」と二度にわたって回答してきていた。北朝鮮としては、最後までシラを切りたかったのであろう。

 拉致問題に風穴を空けた2002年9月の小泉訪朝は、それまでの1年半、通算37回に及ぶ田中均・外務省アジア大洋州局長と「ミスターX」と呼ばれる北朝鮮の密使との水面下の交渉の結果、実現したものだったが、事前の了解では、「北」が「行方不明者」のうち生存者数名を日本に返すことになっていた。

 ところが、合意文書である『平壌共同宣言』は拉致には一切言及しておらず、しかも日本政府が認定した「10件15人」のうち、「5人生存、8人死亡、あとの2人は入国の事実なし」というのが回答で、直前にこの結果を知らされて会談に臨んだ小泉首相はじめ日本代表団には強い衝撃が走った。これを察知したからか、予定の行動だったのか、金正日総書記(首脳会談では「国防委員長」)が午後の会談の冒頭で、「特殊機関の妄動主義・英雄主義の仕業」としながらも、「遺憾なことであり、二度と繰り返さない」と述べて小泉首相に陳謝した。

 しかし「死亡した」とされる8人の死亡時期、死因に不自然な点が多く、さらに証明書類にも誤記が多く、とうてい額面どおりには信用できない代物だった。このため日本の反応は逆効果となって国内世論が硬化し、2004年5月の再訪朝の際、小泉首相が改めて再調査を直接依頼した。しかし、まだ完全な回答はもたらされていない。

 2002年9月の最初の小泉訪朝のあと、『平壌共同宣言』にしたがって、同年10月、国交正常化交渉がクアラルンプールで再開されたが、その直前に米国は、「北」がパキスタンから遠心分離器を密輸入してウラン濃縮計画に乗り出したという新たな疑惑を持ち出し、しかも「北」がこれを公然と容認したことを暴露して、再び日本を牽制した。

 外務省は、拉致と核の「包括的解決」を目指すとしているが、前途多難である。核問題の解決は、米国が本腰を入れて朝鮮半島に残る冷戦構造を解消する意思があるか否かにかかっており、大統領選挙後の米新政権の動向しだいだ。米国を出し抜いて日本が独自の判断で日朝国交正常化に持ち込むのは至難の技である。

日朝国交正常化はなぜ実現しないのか

 以上から明らかなとおり、米ソ冷戦下では北東アジアにも冷戦構造が持ち込まれ、南北は軍事境界線、いわゆる38度線を境界として対峙し、烈しく対立していたのだ。韓国には、いまなお3万7000の「在韓米軍」が駐留し(ただし2005年末までに1万2000名撤収予定)、韓国軍とともに定期的に米韓合同演習を行い、「北」の南下に備えている。

 日本は、韓国とともに反共陣営を形成する米国の同盟国として、というよりも対米追随を余儀なくされた従属国として、日本には米韓両国の反対を押し切って日朝国交正常化に持ち込む外交上の選択肢は与えられていなかったことを改めて認めざるを得ない。

 拉致問題が表面化した際、「日朝関係が不正常なために発生したもので、国交正常化していれば拉致は起きなかった」とする見解と分析が一部で流布したが、これも国際政治の現実を知らない素人の議論だ。国交正常化していれば、「北」の工作員はもっと大手を振って日本に入国し、「南」の解放と人民蜂起のために、日本を基地として利用していたであろう。

 歴史に「もしも」は許されないが、仮定の話として、日本に非武装中立を唱える社会党政権あるいは親ソ的な社共連立政権が誕生していたら、話は別である。北東アジアの政治地図は大きく変わっていたことは疑いない。社会党(社共)政権は日米安保条約を破棄し、日韓条約も再締結して謝罪と補償を条約に明示し、同時に日朝国交正常化も実現していたであろう。日本は、植民地支配と戦後の「敵視政策」に対する補償も含めて大規模援助を行い、北朝鮮は韓国と並ぶ経済力を誇っていたかもしれない。日本は北東アジアの平和と繁栄に、もっと主導権を発揮し、アジア諸国の信頼と敬愛を集めていた可能性も高い。

 冷戦崩壊後、日本は戦後一貫して対米協調(実体は従属)路線をとり、反共の立場を貫いたから今日の繁栄があるというのが自民党の主張で、これが国民の過半数の支持を得てきたわけだが、この仮説は疑わしい。

 戦後の日本外交は「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワーの言葉)、対米追随に徹し、現在なおそこから脱却できないため、日朝国交正常化が実現せず、北東アジアは不安定なのだ。小泉首相はブッシュ米大統領と盟友関係にありながら、在任中、日朝国交正常化を実現しようとしているが、これは二律背反だ。米国がケリー民主党政権に替わって米朝国交正常化が同時進行で早期に実現しない限り、小泉氏の決意は「見果てぬ夢」に終わるであろう。

 日朝国交正常化が実現しない理由は二つある。一つは、北朝鮮の「核」を格好の口実にして、北東アジアを緊張状態におく脅威のタネを温存し、日米安保体制と米韓軍事同盟を強化しようとする米国の覇権主義、ならびに国内の軍産共同体とCIA(中央情報局)、DIA(国防総省情報局)などの情報収集組織の利益擁護のためである。彼らは日本が地域の平和のためにリーダーシップを発揮しては困るのだ。だから日本が動こうとすると、そのつど牽制し、妨害を試みる。

 もう一つは、「現代コリア」グループなど日本国内の反北朝鮮勢力、ならびにこれに同調する右翼タカ派の排外主義・国粋主義思想である。彼らの共通項は朝鮮民族蔑視・敵視感情である。彼らは、日朝国交正常化に反対し、金正日体制打倒を叫ぶ。拉致問題を最大限に吹聴、拡大して北朝鮮、特に金正日個人に対する憎悪と反感を増幅するためのメディア戦略に余念がない。拉致被害者家族は、こうしたメディア戦略に利用されているにすぎず、北朝鮮が死亡と発表した「10人」の生存説に望みを託し、ひたすら信じさせられているのだ。

 小泉首相は「歴史に名を留めるために」(官邸筋の話)、2006年9月の任期切れまでの向こう2年間に日朝国交正常化の実現を目指しているが、そのためには、内外のこれら二つの障害を排除しなければならない。排除できるか否かは、(1)与党・自民党と公明党の支持、(2)次期政権党としての可能性が出てきた民主党の支持、(3)メディアを通しての国民の支持、以上のうち、いずれかが不可欠だ。

 私が期待するのは、(3)の国民の支持だが、そのためには、国民というより「市民」が自ら長期的視野に立って北東アジアの平和と繁栄のために、対米追随を脱し、日朝国交正常化が不可欠と判断し、小泉首相の決断と行動を支持しなければならない。「市民」がメディアの情報たれ流しに批判的に受け止め、選択眼をもつことを「メディア・リテラシー」という。

 最近(2004年8月)、中朝国境を越えて亡命してきた「脱北者」が、拉致されたと見られる日本人の写真を持ち出し、これが日本のテレビ局の手に渡り、同局のネットワークで大々的に独占放映された。写真鑑定の結果、「特定失踪者」として北朝鮮に拉致された可能性があるとされる日本人のリストのなかの一人に、ほぼピッタリと一致する該当者が存在し、折から北京で開催されていた日朝実務者協議に持ち出されて、北朝鮮側が調査に同意するという一幕があった。

 この脱北者には同局から多額の謝礼が支払われ、これを韓国の支援団体が斡旋したとされている。これは韓国では「企画亡命」と呼ばれ、脱北ビジネスが形成されている。

 これなどは、金正日体制打倒運動を企む組織が脱北者と結託して、日本のメディアを動かした例だ。日本のメディア、特に民放各局は北朝鮮の体制批判の映像さえ入手できればカネに糸目をつけないというのが亡命工作員、韓国の「企画亡命」関連団体の一致した見解といわれている。その意味でも、日本の「市民」の覚醒とメディア・リテラシーが望まれる。

 「市民」の覚醒、メディア・リテラシーに次いで必要なのは、対米追随からの脱却、日米安保条約破棄である。第二次大戦終結から60年、冷戦終結から15年を経て、いまだに日本全土に4万2000もの米軍が駐留している事態が異常以外の何ものでもない。現在、全世界規模の米軍再編計画(トランスフォーメーション)が進行しているが、在日米軍の削減・撤収の予定はない。「思いやり予算」で日本側が経費の3分の2相当を負担しているからだ。こんな「おいしい話」はない。

 米軍撤収を要求する代わりに、憲法を改正して日本を「普通の国」に変え、自衛隊を国軍に改称して国防力を強化するという自民党の右派勢力の構想は時代錯誤だ。北東アジア非核化、多国間安保共同体の構築を経て、民族共生の道を歩む以外に、域内諸国にとって選択肢はないことを改めて訴えたい。そのためにも日朝国交正常化が不可欠なのだ。

【『理戦』No.78/2004年10月刊】

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【定価2400円+税】

現代アジア最新事情

編著 『現代アジア最新事情
(大阪経済法科大学出版部)
【定価2600円+税】

国連安保理と日本

訳著 『国連安保理と日本
(岩波書店)
【定価3000円+税】

動き出した朝鮮半島

共著 『動き出した朝鮮半島
(日本評論社)
【定価2200円+税】