2008年12月22日
上田哲氏の逝去を悼む
旧社会党の論客、上田哲氏が12月17日、逝去した。80歳。死んでもおかしくない年齢だが、1993年の選挙で落選後、連立政権入りした社会党を批判して離党してから晩年は不遇だった。都知事選、衆院選、参院選に次々に立候補し、ことごとく落選した。組織票に頼れず、往年の知名度も低下した結果、泡沫候補扱いだった。小選挙区制は憲法違反だとして提訴、最高裁判決まで孤軍奮闘したが、すべてに敗れた。
私のNHK勤務時代は日放労委員長としてNHK組合員1万5000人の頂点に立ち、NHKの人事にも介入、前田義徳会長とともに「上田天皇」と呼ばれ、権力をほしいままにしていた。私にとっては、仰ぎ見る、まばゆい存在だった。
1999年、一市民となった上田氏を誘って訪朝した。9年前だが、まだ政治的野心がギラついていて、自己顕示欲は衰えず、往年の盟友、金永南・最高人民会議常任委員長(形式上の国家元首)に会見できるまでは帰国しないとゴネて、団長の私を困らせた。金永南氏とは、同氏が外相時代に親交を深め、「上田がピョンヤンに来ていると伝えてくれれば会いたいと言うはずだから取り次げ」と言って譲らない。北朝鮮が高度の官僚主義社会で、旧社会党と朝鮮労働党の公的交流の一環として社会党幹部として訪朝した上田氏を遇した昔と今とは事情が異なることが上田氏には理解できなかったのだ。結局、往年の盟友には再会できず帰国したが、彼の粘りには根負けした。
上田氏は、私が埼玉大学のゼミ生6人を連れて訪朝した際、「顧問格」で同行したのだが、金日成総合大学を訪問し、学生同士の交流会を催したところ、わがゼミ生は北朝鮮のエリート学生の雄弁に気圧されて沈黙するばかり。わが上田先生が弁舌さわやかに孤軍奮闘して応戦してくれた。若さと情熱は衰えていなかった。
晩年の浪人生活に入ってからの著作『戦後60年軍拡史』(データハウス社)は1000ページ以上の労作である。自己宣伝臭が多少鼻につくが、氏が生きた時代の証言として貴重な記録ではある。ご冥福を祈る。